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東京恐怖症

   DIE TOKIOPHOBIE

【重要】

§ 愛すべき祖国はこの34年余で間違いなく今が最低だ。それでも,否,だからこそ,少しでもやれることはやっておく。賛同される方は署名を。

  翼賛体制構築に抗するという「声明」を


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暗無天日

§ 絶望というのは案外喜劇的な装いでおとずれるのかもしれない。


東京ブラックアウト東京ブラックアウト
(2014/12/05)
若杉 冽

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 人を人とも思わぬ化け物であっても自分の妻子はかわいい,というのが滑稽で悲しい。「悪」の正体はやはり,一見「悪」らしく見えないところにこそあるのだろう。家庭の幸福が諸悪の根源だと太宰治は言っていたが。

当機立断

§ 人間が何かを利用する(=道具として使う)のは,人間の能力に限界があるからだ。たとえば,人間がナイフを使うのは,肉の塊を丸呑みする能力が人間に具わっていないからだ。人間が言葉を使うのもおそらく同様だろう。世界を丸呑みすることはできないから,あたかもナイフで肉の塊を細かく切り分けて口に運ぶかのように,言葉で世界を切り分けて自分に取り込むのだ。
 言葉は世界を「切る」もの,刃物だ。「51対49」と「49対51」とを一刀両断し,前者に「勝ち」,後者に「負け」というラベルを容赦なく貼るのが言葉というものだ。あゝなんという暴力性。まさにこの暴力性こそが,言葉を非常に強力な道具たらしめているのだ。切らずに呑み込めない以上,どこかで切らざるを得ない。49と51を離れ離れにするのは未練が残るが,そんなことを言っていたのでは到底生きていけない。そこで言葉のご登場。その難題を見事にすっきり解決してくれる。なんとありがたい……。人って「未練」よりも「すっきり」が重要なのね。「すっきり」ってそんなに大切なのね……。
 だが,効きすぎる薬(や有能すぎる部下)にはご用心。必ず副作用が付いてくるもの。言葉は,「51対49」と「49対51」とを一刀両断する(という暴力を行使する)のに付随する形で,「99対1」と「51対49」とを同じ「勝ち」として一括りにしてしまうという別の暴力も行使するのだ。食品に「福島産」とかそれ以外だとかのラベルを貼ることに一体何の意味があるのだ。まさか放射性物質が県境で一旦停止するとでも言うのか。だが,いろんな人が言葉というナイフで「福島」と「非福島」とを切り分けたがる。言葉は何かを伝える代償として,別の何か重要なものを切り捨てざるを得ない。これなどはその弊害が最悪な形で現れた一例だ。
 刃物は凶器。刃物を手にした人,特に刃物を手にした○○には気をつけないといけない。


§ 友達ってなんだろう? とりあえず考え出した定義は,

 ① 当日いきなりでも「飲もう」とこちらから誘える
 ② それだと当然断られることも少なくないが,お互い別に気まずくはならない

の両方を同時に満たせる相手(だけ)が「友達」だ,というもの。両方同時に満たせない相手は,申し訳ないけど友達以外の何かだということになる。
 ところが,これを大学生諸君に言ってみたところ,総じて「厳しすぎる」「ハードル高すぎる」といった反応だった。彼ら彼女らは,友達というものをもう少し広い,もう少し緩いものとして捉えているようだ。逆に言えば,友達同士ならもっと気を遣わないといけない(そうしないと友達がゼロになってしまう)とも考えている模様。確かに,①と②を同時に満たせる相手というのは,私に何人いるかは敢えて言わないが,何十人も何百人もいないことだけは間違いない(Facebookじゃあるまいし)。でも,友達が1でもゼロでも,別にいいじゃんね。


相持不下

武田鉄矢が言及した「ストーカーになる男の典型」が深い

暴走する「愛」と「正義感」

 朝,京王線の中で①と②とを交互に読み,「うーん……」と唸っているうちに新宿に着いてしまった(本当に唸り声が出た)。一体何が唸らせたのか,その正体が多少なりとも明らかになることを期待しつつ,本来胸の奥底に仕舞っておくべきかもしれないことを敢えてぐちぐちと書いてみることにする。

 おそらく,①と②のどちらも正論なのだ。そこは認めつつも,どちらを読んでももやもや感が拭い去れない。

 ①は,「ストーカー」というものがおしなべて愛されたがり,「見返り」を求める「打算的」なものだという前提で話をしていて,その限りにおいて言っていることはどれも正しい(ここの内容とも一部重なる)。だが,②などを読むと,その前提自体がいささか乱暴すぎるのではないかという気がしてくる。②の筆者の女性に対する行為も,「打算的」に「見返り」を求める軽挙妄動であり,「最高のエクスタシー」を知らぬがゆえの帰結である,と断じて終わりにすることができるだろうか?

 一方,②の主張も極めて正しい。常識や法やモラル(みたいなものに従う人たちは,たいていそういうものの価値を認めて従っているのではなく,所詮自らの保身や世間体のために従っているに過ぎない),そんなくだらないもののために揺らぐような「愛」など到底「愛」の名に値しない。もやもやするのは,「それってみんなあなたの独り善がりでしょう?」と感じられてしまう点に由来する。②の筆者には,相手の女性の意思や都合を斟酌した形跡は見られないし,むしろ「相手の意思や都合に左右されないことこそが「愛」の揺らぎなさを担保している」と主張しているようにも見える。そして,そういう態度を①は根底から退けているのだ。

 ①と②の間の断裂は深い。両者の間にいつか橋が架かる日が訪れるのか。

 自己のない「愛」は薄っぺらいが,相手のない「愛」は空しい。

 常識の範囲内での「愛」は不徹底だが,徹底的な「愛」は誰の幸せからも遠そうだ(最終的には「愛する人に死ねと言われたら死ねるか」というような話に行き着く)。

 自己と相手と,どちらもないといけないのだろう,と思うが,うーん……

 うーん……

海誓山盟

§ 総てを等しく愛する包含的な愛は,神にのみ可能。日常において,Aに対する愛は「非A」に対する「非愛」を伴立する。「伴立」であって「前提」ではない。「Aに対する愛」があれば「非Aに対する非愛」が必ず付きまとうし,「非Aに対する非愛」なしに「Aに対する愛」は存在し得ない。「愛」のみがあって「非愛」は存在しない,と言うのは,コインに表のみがあって裏は存在しない,と言うようなもの。神に非ざる者にとって,愛とはそのような排他的な形を取る他ない。単純明快。そして悲しい。

波濤洶湧

§ プールでは,波1つ立たない水面を,やはり波もしぶきも一切立てず,滑るようにすーっと泳ぎたい。しかし,そんなことはお構いなしに,むしろこれでもかと波を立て水しぶきを上げる人が必ず現れる。まるで,波を立てないでいるのは怠惰だ,と言わんばかりに。あるいは,波を立てることによってダイナミズムが生まれる,とでも言いたげな。そりゃ動きは活発になるかもしれないけど,波がどこかに水を持って行った分,必ずどこかで水がなくなっているのにね。水面に残る波と泡があなたの生きた証なのか,などと冷笑するのはさすがに斜に構えすぎだろうが,それにしても波や泡がほんの一瞬で消え失せてしまうことを思うに,「なぜわざわざそんなことを?」の感は否めない。
 プールの水面に,一瞬人の世を見た気分。

固執己見


光 (集英社文庫)光 (集英社文庫)
(2013/10/18)
三浦 しをん

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 東野圭吾の『白夜行』と雰囲気が似ていて,そちらを読んだときと同じような不快感を覚えた。人の誰かあるいは何かに対する執着,とは事実上巷で「愛」または「憎」と称されているものに当たるが,そうした執着がすべてで他を顧みない独善に対し,嫌っても仕方ないと思いつつどうしても嫌悪感が抑えきれなかった。世の中「愛」の賛歌であふれているが,その正体を見極めれば少なくともそれが決して美しいものではないということがよく判る。このようなものに自分の意思で手を出したいとは到底思えないが,自らの意思に反して巻き込まれてしまう,という性質のものなのだろうか?
 この嫌悪感の由来をさらに辿っていくと,それが「愛」が「自由」を侵すことに起因するのだと気づく。これらの作品の中に限らず一般論として,悲しいことだが愛と自由は対立関係にあると結論付けざるを得ないのではないか。ごく常識的に考えて,「好き嫌いがない」というのは最も選択肢が多い,すなわち自由な状況であるはずだが,それは取りも直さず「何でもいい」ということである。そしてそれは,考えるまでもなく「どうしてもおまえじゃなきゃだめ」とはおよそ対極に位置する状況ではないか。どうやら,愛や憎というのは「不自由を甘受する心」と言い替えることができそうだ。
 そして,不自由をもたらすものとしては上の嫌悪感も例外ではないのだ。

無能為力

§ 「傑作だ」という評判を耳にしたので買って読んでみた:


天使の傷痕 (講談社文庫 に 1-1)天使の傷痕 (講談社文庫 に 1-1)
(1976/05/26)
西村 京太郎

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 水曜日,出勤する電車で読み始め,帰りの電車で第11章まですらすら読めた。ここまでは,旅情溢れるミステリで好きだなと,思った。それで,家についてから臨んだ最後の第12章。
 甘かった。胸を撃ち抜かれた気がした。アマゾンには「古い」というレビューがあるけど,そんなことはないと思う。2014年の今現在においても,この第12章の問いかけは依然として生きていると思う。

安之若素

§ 逆立ちした話だ(↓)。

 http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1405/20/news011.html

 仕事というのは「楽しいから」やるものではない。「仕事だから」やるものだ。やり甲斐や充実感や自己承認欲求のためにやるものでもない。仕事で見られるのは「こなせたか否か」のみで,「どんな心境でこなしたか」などはっきり言ってどうでもよい。だから,仕事というのはやる気があろうがなかろうが常にこなせることでなければならないし,「仕事を意味づけるストーリー」がなければできないというようなことはそもそも生業にするべきではない。

§ 人に向かって「バカ」というのは一種の呪文のようなもので,「バカ」と言われ続けた人はそのうち本当にバカになってしまう。理屈は簡単で,よく言う「肩書が人間を作る」というやつ。周囲から「バカ」以上の水準を期待されない者が,どうして己の思考や態度を引き締められようか。

百里挑一

§ 「優れた民族」などという妄想じみた概念が顔を出すたびに眩暈を覚えるが,そんな私とは裏腹にそれが世で根強い人気を誇っているのは事実のようだ。ある人が優れた業績を残すや,その人がたまたま属していた民族(この民族という概念も胡散臭いところがあるが,話が先に進まなくなるのでスルー)自体が「優れた民族」である,というふうに言いたがる人のなんと多いことか。まさか,「たまたま」ではないのだと本気で主張したいのだろうか。
 「たまたま」である以上,あるのは「優れた業績を残した人」だけであって,「優れた民族」などありはしない。では,「優れた人」という概念は認められるだろうか。これは,教育業界の片隅に生息する者にとっては特に深刻な問題だ。「優れた業績」というものが存在することにはとりあえず異議がない。だが,「優れた業績」の担い手を即「優れた人」ということにしてよいのであろうか。
 「あなたは優れた人だ,なぜなら優れた業績を残したからだ」という言明は,主に2つの意味に解釈され得る。1つは,これを帰納的推論とする捉え方で,「あなたの残した業績から推測するに,あなたは(他の分野でも発揮可能な?)高い能力を備えている蓋然性が高い」という解釈。もう1つは,これを演繹的推論つまりトートロジーとする捉え方で,「あなたのように優れた業績を残した人を,定義上『優れた人』と呼ぶことにする」という解釈。そして思うに,上の2つのうちどちらの意味なのか明らかにせず,なんとなく「優れた人」と言っているケースが日常では少なくないのではないか。あるいは,話し手が一方の意味のつもりで言ったのを,聞き手がもう一方の意味に受け取るケースもありそうな気がするが,それは結構なすれ違いではないか。
 前者は1つの業績を以てその人すべてに対し評価を下す買い被りを招来し,後者は「こう呼ぶ約束にする」という前提は所詮恣意的なものだというニヒリズムに繋がる。このように,いずれの解釈をとっても問題の付きまとう「優れた人」という概念だが,それを承知の上なお積極的に採用する価値があるか,「優れた業績を残した人」を敢えて「優れた人」と呼ぶことのメリットは果たしてデメリットを上回るか,という点について注意深く考える必要がありそうだ。

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